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入れ違いに出て行った扈従を見て、嵐は首を傾げた。高い位置で無造作に結った髪が肩に流れる。
どこかで見た顔のような気がするのだが、思い出せずにいたら、部屋の主が苦笑と共に教えてくれた。
「国忠の扈従だった青年だ」
「ああ!そうだそうだ」
動き易い衣装を、と散々駄々を捏ねて女官に出させた服は、絹でできているが型が男物に近く、大股で卓子(に歩み寄るのも楽で良い。嵐は榻子(に縛り付けられている自分の夫の横に立ち、その惨状に吹き出した。上奏文に諸々の草稿が高く積まれ、逃げ出せない隆崇は右手に筆、左手に玉璽を持って超人的な仕事量をこなしている。
「何その恰好!笑っちゃうわ」
「仕方ないだろう!これが片付かねば飯も食えんのだ!」
「毎日真面目にやらないからよ」
ふふん、と鼻で笑って、嵐は別の榻を引き寄せた。たぶん、王が逃げ出さないよう見張る時に、三公の誰かが使うのだろう。今、その姿はないが、それは昼時だからである。
隆崇が恨めしげに横目で嵐を睨んだ。空腹と不自由にかなり気が立っているらしい。
「邪魔しに来たのなら出て行け」
「良いのかなぁ、そんな事言って」
「勅命にするぞ」
「じゃあ、昼餉(は要らないんだ。せっかく厨房からくすねて来てあげたのに」
「ああ!おいこら、待て!」
途端に態度が変わる。
「俺は心優しい妻を得て幸せだぞ」
「心にもないこと言うな」
「うむ。実は自分でも全身が総毛だった」
頬を膨らませたまま、嵐は厨宰(や女官たちの目を盗んで持ち出してきた握り飯を差し出す。隆崇は嬉々として受け取った。
握り飯で喜ぶ王、と言うのも、なかなか妙な光景である。
「榻に縛り付けられ早ふた月、ろくに飯も食わせてもらえん。俺は本当に王なのかと思うぞ」
「だから、普段から真面目にやってれば、こういう目には合わないの」
「毎朝朝議に出て政務をこなせ、と?それもなぁ…」
筆も玉璽も放り出して、食事をする隆崇を見て、嵐は深々と溜息をついた。三公以下、六官の官吏たちも、良くこんな出鱈目な王の許で仕事をしていけるものだと不思議に思う。確かに武勇に優れているようだが、王はそれだけで務まるものでもあるまい。
だが、それは彼女の関与するところではない。嵐は王の貴妃であるが、同時に西王母によって人界より召し上げられた仙であり、正確に言えば武陵桃源国の民ではない。紫霞宮に仮住いしている客人、と言うところだ。
「ところで、先の内乱の後処理だけど。巡見使と地官の処分はどうなったの」
「ああ、それか。国忠と通謀していた連中は全て捕らえた…問題は巡見使制度だな」
先の内乱において討たれた逆臣、国忠は国内を巡察し、王に直接報告する義務を持つ巡見使を抱き込んで悪事を働いていた。もちろん、手懐けられたのはすべての巡見使ではない。しかし、問題は大きい。他の官吏と接触することなく各地を巡るのは、その分誘惑も多いのだ。
「廃止するには忍びないが、同様のことが起こっては目も当てられん」
「それに、武陵王が自分自身で巡察して回っても、全部に目が行き届くとは限らないものね」
嵐の言葉に隆崇が顔を顰める。
「それだ。何度か貴陽県に行ったにも関わらず、奴の暴走に気付くのが遅れたのは俺の不明だ。そういう意味で『目』になる制度は欲しい。必要だ」
「今の巡見使制度を維持しつつ、どう改善を図るか、って問題ね」
二人は同時に黙り込んだ。
そこへ、複数の足音が近付いて敏腕の若手宰相が顔を出した。嵐を見て驚いたように足を止め、拱手《(敬礼の一種。両手を組み合わせて胸元で上下する)する。嵐は鷹揚に手を振って応えた。その後ろに、またしても高く積まれた草稿を抱えた天官の姿を見て、隆崇が呻いた。
「苑墨。お前は俺に恨みでもあるのか?」
「御座います」
返答はにべもない。
「それに、どうやら嵐妃様から昼餉を戴いたご様子ですし、もう少し頑張って戴きましょう」
苑墨は遠慮なく文書を卓子の上に置かせて、天官を下がらせる。嵐の位置からでも、ほとんど紙に埋もれて隆崇の顔が見えなくなった。堪えきれずにまた吹き出すと、草案の向こうで獰猛な唸り声が聞こえた。
「笑うな!」
「ごめんごめん…あはははは!」
「おい!」
ひとしきり腹を抱えて笑い転げた後、草稿の向こうで悪態を吐き続けている隆崇を素知らぬ顔で無視し、嵐は涙を拭いながら榻から立ち上がった。笑いすぎて頬が痛い。
「じゃあ、私はこれで。頑張ってね、苑墨」
「もちろんで御座います」
にっこり微笑む美貌の纏う空気は、今日はそれほど酷くない。さては、今のが最後の書類だったな、と見当をつけたが、確認する理由もない。嵐はまだ残る笑いを噛み殺しながら、室を後にした。
その背を見送って、苑墨は些か困惑の入り混じった表情になった。
「主上」
「あー?」
「ガラの悪い声を出さないで下さい。それより、嵐妃様のことですが」
「ああ…あー。あれな」
握り飯を食べ終わった隆崇が放り出していた筆と玉璽を持ち直す。
「……どうかしてる」
「主上?」
「いや」
再び両手に携えて、猛然と仕事を始める。
彼とて、決して無能ではない。勤勉さと生真面目さに欠けているだけである。しかも両手を動かしながら、同時に苑墨と会話をする余裕がある。嵐の言う通り、普段から真面目に政務をこなしていれば、こんなにも仕事が溜まる事など、ありえなかっただろう。
それを溜め込むのが、隆崇の隆崇たる所以、とも言えたが。
「子儀の奴はどうかしている、と言ったんだ。国奸の乱ですっかりアレに心酔したそうじゃないか」
「ええ、馬を駆るお姿はなかなか華麗でいらっしゃいましたからね」
「胸の小さな小娘だぞ?そりゃ、剣は使えるし、統率力も充分あるが…」
「おや、呼び名が『俎板娘』から昇格しましたね」
苑墨が指摘した途端、どん、という大きな音がして、書類の向こうに沈黙が降りる。
不審に思った宰相が背後に回って覗き込むと、筆と玉璽を持ったまま、ものの見事に隆崇は卓子に突っ伏していた。
「主上?」
「だから、どうかしている、と言うんだ」
洩れ聞こえた声には力がなかった。
「どうかしてるぞ…俺」
