国忠の私軍と化した貴陽県の県軍はすでに二万を越している。
だが、彼が京兆へ差し向けたのは、その内の二万のみ。参謀は全軍こぞっての出撃を進言したが、採用されなかった。なぜなら、国忠は未だに王と貴妃が貴陽県内にいると信じているからだった。彼は古くからの県令だが、王と三公のみが知る秘密の通路のことを知らない。それゆえに、県境と反対に逃げた王は貴陽県にまだいると固く信じ、禁軍は動けないと踏んでいた。そして、もし仮に三公が勅命なく勝手に軍を動かせば、それはそれで彼の言い分が正道と見なされるので、勝機はやはり彼にあることになると考えていた。彼は京兆攻略は難事と考えていなかった。むしろ、早めに王と貴妃の身柄を押さえたいがために、軍の一部を貴陽県に残したのだった。
そのことに対して、一部の部下からは異論が出ていたが、進軍を続けながら、彼はその意見を笑い飛ばした。
「他の県令は動かんし、官軍は身動きの取れない状況だ。恐れる理由などない」
だから大丈夫だ、と彼が言うのを、易秋という青年は不安に思いながら黙って聞いていた。
易秋は国忠の扈従《(身の周りの世話をする従者)にすぎなかったので、あえて口には出さなかったが、どうしても事が簡単に運び過ぎることが気になっていた。
「県令は官吏としては優秀でいらっしゃるけど…」
彼は心の内で独り言ちた。
国忠は官吏として有能であったことから、先王によって県令に任じられ、貴陽県を統括したが、一度として戦場に立ったことのない文官である。一方、現在の王は武勇に秀で、左将軍右将軍とも、それに次ぐと言われている。万一、国忠の言う様に三公が実権を握ろうとしているのなら、今頃、官軍はその将軍たちに掌握されている筈であろう。それが易秋には不安だったのだ。
「国忠様は他の県令にも使者を出してはいるけれど、今のところ、動く気配もない」
当然であろう。王の勅命で、彼らは傍観の素振りをしているのである。勿論、易秋がそんなことは知る筈もない。国忠も知らないのだから。
しかし、不安を抱く易秋でさえ、国忠の言い分を疑っていなかった。ほとんどの兵と同様、国忠の言ってることが事実だ、と思っている。より正確に言えば、それ以外の情報を与えられていないので、疑いようがないのだ。
この七百年、国忠は貴陽県で好き放題の政を敷いていたが、自分の部下にだけは非常に気前が良かった。県軍を手懐けるためとも言えたが、とにかく、彼は農民に厳しく兵卒とその縁者には甘かったから、県軍はすぐに国忠に懐柔され忠実な番犬と化した。易秋青年が国忠を疑わないのは、彼の父が県軍に所属しているからでもあった。
一方で圧政に夜逃げする農民が増えたが、取締りを厳しくして逃げ出せないようにもした。国忠自身も硬軟両策を取り合わせて、民を従わせ生かさず殺さずを貫き、できるだけ麦の収穫が減らぬようにしながら、そこから掠め取った財を使って巡見使や地官(地方行政に携わる官吏)にも取り入った。
そうして七百年。
貴陽県は完全に国忠の国となった。県軍にとってのみならず、貴陽県にとっても、国忠は絶対となったのだ。その彼が「三公に逆心あり」と言えば、誰も異を唱えはしない。唱えようがない。
とは言え、国忠はもともとは優秀無私の官吏として知られ、王によって県令に叙された男である。それが先王崩御の時から道を踏み外したのは何故であったのか。
苑墨であれば冷ややかな微笑を浮かべて言い切っただろう。
「分不相応の地位に就いたから」
国忠は一官吏としては非常に優秀だった。与えられた仕事を真面目に行い、清廉の徒であった。官吏には不正の誘惑が多かったが、彼はそれに決然と立ち向かうだけの気骨があり、利己心なく職責を全うする男だった。
ただし、それは彼に良識の枷を嵌められる上司のある一官吏の状態、限られた権限内で仕事を全うする場においてのみ発揮されるものだったのだ。
県令の権限は小さくない。治水を行い均田を行なう。租税を徴収し、県軍を使役し、県の治安を維持する。いわば、県の王である。その誘惑は官吏の比ではなかった。それでも国忠は王が崩じるまで耐えた。私腹を肥やすことだけで我慢した。だが、自らを叙した王が倒れた時、箍が外れた。それまで禁欲であった分、堕落は急速に彼を蝕んでいった。
そうして、悪心が常となった時。彼は新王の前に平伏しながら、遂に眼が眩んだ。
「俺は立派に県令を務められた。だったら、どこの馬の骨とも知れない平民上がりの新王より、私の方がずっと良い王になれる」
そうして、時間をかけて準備をしていた彼の元に、ある時、その新王が飛び込んできた。彼は心の中で叫んだかもしれない。天の配剤、と。
ところが、いざ、勝負に出た彼の許から王は逃げ出してしまった。せっかく油断させるために、これまた前歴の知れない−と、少なくとも彼はそう思っている−貴妃を呼び寄せまでしたのに。国忠は慌て、そして結局のところ武力に頼ることにして、事ここに至った。
易秋青年の心配を余所に、陣中にて、国忠は既に手にしたも同然と思い込んでいる勝利に酔いしれていた。県城から出立し、すでに京兆は目と鼻の先。官軍に動く気配はなく、彼の行軍を止める者はない。
「あとは隆崇を捕らえるのみ、か」
彼は有頂天だった。
新王に就くには天意ある三公が必要だと言うことも、まったく難題だとは思えなかった。新王の暗愚、主に放蕩を嘆く声は王宮のあちこちにあったから、正道を唱える彼に靡くものも多いだろう、と考えている。否、信じきっていた。そして、その中には天が自分のために三公に相応しい人物を用意してくれている、と勝手に決め付けていたのである。随分と楽観的な考えだが、まったくの本気で。
箍が外れて、七百年。国忠の精神は、完全に後戻りできない状態にまで悪道に陥っていた。しかも、彼にはその悪心をして悪事を成し遂げるだけの才を持っておらず、そのことを自覚するだけの理性も失っていた。
初めに馬蹄を聞いた時にも、彼はそれが敵襲だなどとは、夢にも思わなかった。この七百年で弛んでいった身体を揺すって、暢気に酒など呷っていた。部下が飛び込んできて、敵が、と叫んだ時でさえ、咄嗟に反応できなかった。
だが、前線の兵士たちはそうはいかない。夜営に一斉に人馬が躍り込み左右に剣を振って血煙を巻き起こした瞬間、彼らは真っ先に現実に直面した。
「敵襲だ!」
「官軍が…」
「官軍が奇襲を仕掛けてきた!!」
剣を、槍を、それぞれの武器を握る前に斬り込まれて浮き足立っているところに誰かが叫んだ。兵士の間に恐怖が弾けた。
どうして良いのか判断もできぬままに何人かが斬り殺されると、もはや手のつけ様がない。兵士は皆、上官の命令も聞かずに逃げ惑った。雪崩れ込んできた敵は、それを追い散らす。陣中は完全に混乱に陥った。
もちろん、必死で立て直そうとする者もいる。
「主上は県城にて床に臥せっておられる!これは官軍ではありえぬ!逃げるな!逃げずに天下国家のために戦え!戦うのだ!」
おおよそ、県令の悪逆を知りながら彼の許での栄華を望んだ者を中心として兵士を引き止める声が上がった。もし国忠の謀反が失敗すれば彼ら自身も危ないのだから、叱咤激励し、必死になって兵士を踏み止まらせようとする。
もっとも、それも空しい足掻きに終わった。夜営の松明に浮かび上がった兵の姿は、誰の目にも官軍のそれであったし、何よりも奇襲のその時から夜闇に朗々と響き渡る声が反逆者の言葉を掻き消す程に広まっていた。
「国忠は弑逆《を試みた謀叛人であるぞ!王に剣を向けるは大罪と知らぬ者はあるまい!心ある者、道義を知る者は剣を捨てて投降せよ!」
玲瓏たる美声を発し、騎影が陣中を縦横に駆け抜ける。煌びやかな甲冑に、月光を反射する細身の剣。
宣言通り先陣を切って敵地に突っ込んだ嵐だった。
黒馬を駆って疾走し、戦場を走りながら彼女は国忠を探す。
実は、この時点で貴陽軍を襲ったのは娘子軍だけであったから、すぐさま陣形を立て直せれば、あるいは充分に勝機はあったかもしれない。陣の側面から斬り込んできた兵士が女ばかりであることに気付いた者も少数ながら存在し、彼らのそのまた一部は武器を手に戦場へ戻ろうとした。だが、一度蔓延した怖れは、おいそれとは立て直せない。何より心の準備が足りない。指揮官の緊張感と軍才も足りない。
そして、決定的であったのが、夜営の前方で沸き起こった鬨《の声であった。
「全軍突撃!」
「逆賊国忠を捕らえよ!全軍、主上に続け!」
「投降した者は許す!直ちに剣を捨てて投降せよ!」
入り乱れる馬蹄にも負けない、腹に響く声が闇を打った。武装した兵士の波が松明に浮かび上がる。
官軍の到着である。
この刹那、完全に貴陽軍は瓦解した。二万の軍勢で撃って出たのは、官軍が動かないと言う国忠の希望的観測からだったのだから、もはやそれが破られた後には何も残らない。戦意を失った軍など烏合の衆、幾ら数が多くても恐れるに足らず。
ついには、踏み止まっていた奸臣《たちの半数以上も逃げ出した。そして国忠も同様に。
「県令が逃げた…っ」
「国忠様が逃げたぁ!」
濁流に呑まれる様に、県軍は呑み込まれていく。ほとんどの兵が武器を捨て、官軍に降る。国忠が逃げた今、彼らの戦う意味は消えた。あるいは、彼らも国忠の精神の急速な傾斜に怖れながら仕えていたのかもしれない。もはや国忠に義理立てする者はほとんどなかった。それでも尚、歯向かう者がないわけではなかったが、彼らは終いにはかつての部下の手に掛かって生命を失い、投降の手土産とされた。一息に情勢は決まった。
無軌道の果ての叛乱は、ついに終焉を迎えようとしていた。
果たして、その事実をどこまで国忠は冷静に理解できたであろうか。
彼は愛馬に跨って逃げた。部下も兵士も捨てて。ただ独り、月明かりを頼りに必死で行軍してきた道を戻る。その顔は脂汗に濡れ、歪み、もはや能吏の面影はない。ひたすらに馬を煽る。
しかし、すぐに二つの騎影が追い縋ってきた。揃いの剣が星影に光る。
「国忠!逃げるか!」
「逃げる場所があると思ってるの!?」
夜気を震わせる怒声を受けても、国忠は振り返ることさえしなかった。彼は逃げた。逃げていた。追っ手からも。そして、現実からも。前を見つめ、ひたすら己の居城を目指す。肥大した欲望が直面した敗北は、かつての清廉の徒を完膚なきまでに打ち壊していた。
ひたすら貴陽県に向かって。
その時、不意に一騎が夜の闇から飛び出して馬を横付けした。
「お待ち下さい、国忠様!」
易秋だった。
県令に側近として仕え、その言葉を心の底から信じていた青年は混乱し、今、必死になってその人を追いかけていた。彼にとっては、何事が起こったのか、主人から直接聞きたかったのだ。奇襲してきた官軍、叩き付けられた叛逆者の汚名。その意味を主人に求めた。
背後から迫る憤怒の二人さえも突然の闖入者に戸惑い、かける言葉に迷う。
「国忠様!主上は県城におわすのではなかったのですか!妃殿下に襲われたのでは…!?」
しかし、すべてを失った男、精神の支柱までも失った男は何も答えず、目を血走らせてひたすら走り去っていく。
ただ、月下の夜道を。
青年の馬が速度を落とした。彼は主人の沈黙から真実の一端に触れたのだ。その表情が驚愕に蒼白となったことも、やがて口唇を噛み締めて怒りに燃えた目をかつての主人に向けたことも、国忠は知ろうとしなかった。青年を追い越していった二騎にさえ見えなかったのだから、己が安寧だけを求めて逃走する国忠にわかろう筈もない。
王と王妃に追い立てられながら、国忠は馬に鞭を入れた。一筋の空気の震えに気付くことなく。国忠は馬を走らせる。背に深々と刺さった矢にも気付かず。落馬する自分にも気付かず。
肥満した身が地面を打った時、彼の首は虚空に飛び上がった。我欲に塗れた両眼を見開いたまま。
一騎が舌打ちし、もう一騎も不本意そうに馬を止めて振り返った。弓を構えた青年が、やや呆然とした表情で地に落ちた首を見ていた。
「…誰だ?国忠の部下か?」
「易秋、県令国忠の扈従に御座います…。叛乱軍に加担いたしました罪、どうぞ厳しく御処断下さい」
答えた声は、か細かった―――――――――――――――こうして、一夜にして国奸《の乱は終結した。
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