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「貴陽軍二万だと!?」
部下の報告に左将軍玉祥は瞠目した。
県軍は一万五千を超えぬこと。そう、武陵国の法には明記してある。既に進撃を開始した兵の数が二万と言うことは、かなり以前から徴用していたと言うことになり、それは完全な罪である。
主のいない紫霞宮の一室で政務をこなしていた宰相苑墨と尚書陸由も、この報告に驚愕を隠せない。
「拙いな。軍は勅許なくしては動かせない。その主上は貴陽県にいる筈だ」
「それが…その」
「なんだ!はっきり言え!」
右将軍子儀に怒鳴りつけられて、夏官《(軍官)は飛び上がった。
「主上が妃殿下に襲われ、意識不明と…」
「馬鹿な!」
「少なくとも県令はそのように言っております!この度の婚儀は三公の陰謀、得体の知れぬ余所者の嵐妃様を主上に娶わせたのも、身の危険を感じて貴陽県に身を隠しておられた主上の元に密かにご乱心の嵐妃様を送り込んだのも、全て三公が主上を亡き者にして権を専らにしようという企みだ、と。よって自分は政道を正すために京兆に出兵する、と…」
これには重臣四人も咄嗟に反論できない。互いに顔を見合わせる。
やがて呆れたように溜息をついたのは苑墨。手にしていた筆を放り投げて、榻《に凭れ掛かった。秀麗な顔に軽侮と皮肉に充ちた微笑が灯る。
「成程。そういう見方もできるか」
「苑墨!」
「確かに西王母と諮って婚姻を推し進めたのは俺だし、あまり表立たないよう貴陽県に貴妃をお送りした。表面的な事実しか知らぬ者が見たら、県令の言い分を信じても可笑しくはあるまいな」
だが、その口調は、そんなことを信じてはいない。
「ところが、県令は致命的な失敗をしている」
「失敗?」
「考えてもみろ、陸由。我々三公は主上が王である時のみの三公だ。主上に死なれたら、即刻罷免だぞ。それなのに、わざわざ他人の城で主上を暗殺して何になる?王宮の一角に幽閉して実権を奪うと言うならともかく、どこの阿呆が県城まで行って、しかも貴妃を使って主上を殺す?少し考えれば、猿にだって理解できる」
これには残る三人も頷かざるを得ない。何しろ、三公は王がなくては三公たりえないし、王もまた三公がなければ王たりえない。王と三公は一蓮托生、どちらが欠けても国の要として成り立たない。それが蓬莱の理だから。
そんなことより、と苑墨は夏官に向き直る。
「問題は主上と嵐妃様がどうなったか、だ。国忠は何とほざいている?」
「は…主上は県城にて病床に、妃殿下は県内を逃亡中であるが、捕まるのは時間の問題だ、と」
夏官の報告に、苑墨の表情が凄惨な笑みに変わった。
残りの三人が怯えたように、彼から離れる。隆崇即位以後からの臣下である子儀以上に、陸由と玉祥は苑墨との付き合いの長さから、この手の事態に至った時の彼の苛烈な性格を知っている。苑墨は虚仮《にされるのが我慢ならない性分なのだ。
思わず嘆息した。国忠の大馬鹿野郎め、と。どうせやるなら、堂々と謀反を起こせばよいものを。
相当腹を立てている証拠に、苑墨は友人たちの心情を顧慮する気配を見せない。
「ふむ。どうやら、逃げられたみたいだな。主上は蓬莱でも名高い剣客だし、嵐妃様も人界で高名な武人の家系の出だと聞く。そう遠くない内に二人で帰ってくるだろう。おい、玉祥、子儀。いつでも進軍できるように準備しておけ」
「わかった」
長居は無用とばかりに、すぐさま二人が飛び出す。
陸由が恨めしげにその背中を見送った。彼はここを離れる理由がない。
その時、回廊の方で華々しい音がした。馬の嘶きも微かに聞こえる。天官たちの恐慌に陥った絶叫を耳に捕らえて、陸由は安堵の息をついた。王宮で馬蹄を轟かす様なことを平気でやる人間は限られている。
慌しく扉が開いて数人が転がり込んできた後を、二つの騎影が続いた。苑墨の微笑に凄まじいものが走るのを、陸由ははっきりと見た。
「主上!妃殿下!」
「ただいまっ!」
夏官が叫ぶ声に、少女がにっこり笑って答えた。
男の方はさっさと馬を下りて、苑墨に向き直る。その顔にいつもの太平楽な表情は、ない。
「国忠は起兵したか?」
「その様で」
「ちょうど良い、叩き潰してくれる」
男は足早に卓子《に歩み寄ると、放り出された筆を拾って素早く紙上に走らせる。そうして、玉璽を押してから、夏官に向けて放り投げた。
「左将軍に持っていけ」
「御意!」
「それからできるだけ目立たぬよう、思い切り急げと伝えろよ、何しろ早い者勝ちだからな」
天官や女官たちが右往左往、入り乱れている中、夏官が転がり出て行く。
苑墨は呆れた様に隆崇を見た。
「主上、昔馴染みとして、一つ忠告をお許し戴けますか?」
「なんだ?」
「王が巡見使の真似事をして如何する!少しは考えて動け!」
「仕方ないだろう。官を送り込んだら警戒されて、殺されかねん。優秀な部下を無駄死にさせるなど暗君の所業だぞ」
平然と言ってのけて、隆崇は肩を竦めた。
「小言なら乱を平定してから聞く。今は一刻も惜しい」
「…そう言えば、早い者勝ち、と言うのは?」
陸由が不思議そうに首を傾げた。
兵は神速を貴ぶと言い、拙速を尊ぶとも言う。しかし、彼らの主は、決して準備を怠るような真似はしない。時にあえて巧遅を選ぶことすらできる男である。急げとだけ指示することは滅多にない。特に、今回の場合は。理は完全に禁軍にある。どう頑張っても国忠の分が悪い。それにも拘らず、何故そこまで急ぐのか二人には理解できなかったのだ。
「首だ」
「首?」
苑墨と陸由は顔を見合わせる。それに、隆崇が肩を竦めて応じた。
「国忠の首は早い者勝ちだ、と決めたんでな」
「誰とです?」
「小娘と」
一瞬、間が空いた。
咄嗟に言葉が出ないまま、三公の内の二人は、奇妙なものでも見るように、女官たちに着替の用意を命じている彼らの主を見た。
そう言えば同時に馬で王宮に乗り込んできた嵐が姿を消していることに、この時になって二人はようやく気がついた。
陸由が真っ赤になって叫んだ。
「まさか!妃殿下も出陣されるおつもりで!?」
「おう。利用されて黙って引き下がれるか、娘子軍を率いて国忠を叩きのめしてくれる、と息巻いてな。止める理由もないから、勅許を出した」
「――――この阿呆!じゃない主上!娘子軍は本来、貴妃の警護の為の軍であって、戦場に出すものでは御座いません!」
「その貴妃が先陣切って突っ込むと言ってるんだ、娘子軍がそれを護って出撃するのは道理じゃないのか」
そう言って隆崇は、にっ、と笑った。
「あいつ、なかなか面白いぞ。頭は悪くないし、剣の技倆も一流だ。司馬でも務まるだろうな」
武陵国に於いては、司馬とは将軍職の補佐、軍司参謀を意味する。相当の切れ者でないと務められない責任重大な地位であり、現在は空席、右将軍が参謀を兼ねている。これだけでも、隆崇がかなり高く嵐を評価しているのがわかる。
嫌っていたんじゃなかったか。苑墨と陸由は奇異に思い、恐る恐る訊ねた。
「まさか、主上?」
「怖れながら、嵐妃様に…惚れましたので?」
だが、この質問を、彼らの王は即座に否定した。
心底、嫌そうに。
「あのな。胸は小さい、王に剣は向ける、挙句、人を変態呼ばわりだぞ。信じられるか?まったく―――誰があんな奴のこと」
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