指先と頬に土の感触がして、隆崇は目が醒めた。体内に根強く残る疲労に視界が霞む。場所を特定しようと視線を巡らせ。
彼は止めた。
水音がした。
目の前の姿を見ながら、ムッと押し寄せる緑の香りにも彼は気付く。そうして、昨夜の事を思い出す。水に叩きつけられた感覚と、微かに沁みた感触。真水でよかったと、思った事も。やはり完全な無傷とは言い難い身体で海水にでも入っていたら、激痛に襲われた事だろう。
目の前の白い肌にも傷が幾つかあった。

「…朝か」

呟くと、ギョッとしたように少女が振り返った。

「見たわね、助平すけべ!」

細い身体を少女は慌てて水の中に沈めた。
隆崇はその様子を横たわったまま眺めた。相変わらず身体は思うように動かない。と言うよりも、自然の中に身を置いていることが心地良くて、動かす気になれなかった。
ぼんやりした思考から、思わず皮肉が口を衝いて出てきた。

「誰が見るか、そんな貧相な身体。まあ、俎板まないたよりはマシの様だが」
「見たんじゃないの!」
「見たんじゃない、目に入ったんだ」
「同じことでしょ!」

嵐はそろそろと川辺に置いてある布を手にして、隆崇を睨み付けた。仕草だけで、あっちを向け、と促すと、彼は素直に従った。それでも信用せず、視線を彼に固定したまま緩々と立ち上がり、岩肌に放り出して乾かしておいた布−襤褸ぼろになった服の一部−で身体を拭き、かろうじて身を隠すだけになった衣を纏う。足元の部分はほとんど焦げてしまい膝が見え隠れするし、袖もないに等しい。嵐は溜息をついた。

「どっかで裙衣ふくを手に入れなきゃ。とんでもない恰好だわ」
「まったくだな。ほとんど流民状態だ」

嵐の許可を得て、隆崇はむっくりと起き上がる。その姿を彼女は、熊のようだ、と思った。身体が大きいからの喩えだが、もちろん、それだけではない。昨夜の剣の技倆もさることながら、その腕力が凄かった。
それに、借りができた。嵐はその事について、どう言うべきか、迷っていた。素直に礼を言うのも癪に触る。
ただし彼女の葛藤は、隆崇には伝わっていない。

「だが、悪くない」
「はあ?」
「綺麗な脚だ」

伸びてきた手を、反射的に蹴飛ばす。

「この変態!そんな事言ってる場合か!」
「ああ、そうだな。とりあえず水を浴びるか」
「…変態助平好色漢色情狂っ」

罵詈雑言を浴びせ掛けたが、相手はまったく意に介さない。それどころか、堂々と目の前で脱ぎ始められて、嵐は慌てて余所を向く。隆崇が愉快そうに笑った。

「見ても構わんぞ」
「誰が!」

背後で水の跳ねる音がする。
話題に困って剣を手繰り寄せた。昨夜の激闘が生々しく蘇り、嵐は大きく頭を振った。さすがに、あそこまで過酷な実戦は経験したことがなかった。

「ここ、どの辺かな?」
「さぁな。かなり距離を稼いだし、傍流に出たから…鄭州県との県境からは遠ざかったかもしれん」
「逆走じゃない」
「いや、これで良いんだ」

驚いて振り返れば、黒髪を解いた男が水の中でにやりと笑った。

「そんなに見たいか?」
「阿呆!」

思わず柄を握ってしまう。だが、頬が紅潮するのは止められない。
逞しい上半身が水の上で朝日を浴びている姿は、武神像を連想させた。所々に生傷があるが、それよりも古傷の方が彼女の目を引いた。左肩から右の脇に掛けての一直線の細い傷。かなり薄れてはいるが、妙に生々しい印象を与えた。

「その傷…」
「ああ、これか?」

隆崇の無骨な指が傷に触れた。不意に、その表情が微かに歪む。
しかし、一瞬にも満たない。すぐにいつも通りの太平楽な顔に戻って、首を傾げてみせる。嵐は当惑し、俯いた。

「昔の傷だな」
「…ごめんなさい」
「何が?」

あっけらかんとした隆崇の答えにも、何となく素直に反応する気にはなれなかった。
替わりに、彼女は抱えていた疑問をぶつけることにした。なぜか、傷については触れてはいけない予感がした。

「ねぇ…聞いて良い?」
「なんだ?」

一旦水に潜った隆崇が顔を出すのを待って、嵐は言葉を繋いだ。

「どうして助けたの?」
「誰を」
「私を」
「俺が?いつ?」
「…昨夜、水の中で」

池の中で腕を引かれた気がする。川に出てからも流れに逆らって泳ぐのが難しくて何度も流されそうになるのを連れて泳いでくれた気がする。あの騒動で、意外にも自分は混乱していたらしいと、彼女は改めて気付く。はっきりとした記憶ではないし、上手く言えない。助けられた、と言うのも嵐の主観である。
男は考える素振で少し黙ってから、聞き返してきた。

「理由がいるか?」
「ないの?」
「いや、あるな。寝覚めが悪いし、何より大事な証人だ」
「証人?」
「国忠が俺を殺そうとした事実の、な」
「え!?」
「まあ、それはおいおい説明するが…ところで」

隆崇が首を傾げる。

「そろそろ出ようと思うんだが、見たいのか?」

















廟堂びょうどうが出入り口になっている。そう聞かされて、嵐は驚いたように目の前の男を見た。
途中で無人の廃屋を見つけて勝手に入り込み、衣服を失敬した。室内に荒らされた様子はないが、埃が高く積もり、蜘蛛が巣を張っている。一見して、かなり昔に打ち捨てられたものとわかる。そこで日暮れを待ちながら、隆崇は嵐の質問に答えていた。

「西王母様の廟堂が」
「そうだ。蓬莱界にある全ての西王母廟は、あの厚化粧女の洞に繋がっていて、王、三公、それに仙のみ通る事ができる」
「じゃあ、私も通れるんだ…」

知らなかった、と呟けば、それが当然だ、と返された。
窗戸まどの外は徐々に紅蓮に染まり始めている。乾いた髪を縛りながら隆崇が答えた。

「普通は知らん。ただ、王と三公、それに仙界の住人だけが知っている」
「なぜ?」
「知らせる理由がないからだ」

その口調は、どこか苦笑の響きが強い。

「西王母洞を通れば、繋がっている場所ならすぐに行ける。武陵国だけでなく他の国々にもだ。ただし、誰でもが通れる道ではない。それじゃあ教えても意味がない。結局、代々、王と三公だけが知らされる機密になって、天官も知らぬ。それに廟堂を自由に設置する権限は王と三公にはないから、あんまり使い道もない」
「じゃあ、廟堂は誰が建てるの?」
「あの女の配下の仙だ。やつらは唐突にやってきて、廟堂を作ったり増やしたり壊して減らしたりする。しかも、いずれも王宮や県城からは遠い場所に。だからほとんど使うことはない。俺は時折使ってるがな」

雲海を渡るより早いから重宝する、と笑う。その表情から、どうやら好き勝手に使っているらしいことが窺えた。西王母が必要以上に武陵王に対して干渉するのは、そういう迷惑もあるらしいと、嵐は見当をつける。もともとの性質が合わない、と言うことももちろんあるのだろうが。

「逃げ道についてはわかった。それより、県城の出来事について聞かせて」
「うーん。あんまり話したくないなぁ…」

ごにょごにょと口篭る相手に、鍔を鳴らす。
昨夜の激闘は洒落ではない。殺されかけた身としては説明を求めるのが当然の心情であり、何が何でも聞き出さねば気が済まない。嵐はいつでも抜けるように体勢を整える。

「白状おし」
「…まるで俺が馬鹿王の様に聞こえるから非常に不愉快な話なんだが。国忠はどうやら密かに兵を募っているらしい。しかも、それを諌めた県官(県の官吏)を冤罪で処断したと言う」
「嘘…それって、罪になるでしょ?」
「ああ。県官の処分は県令の権限内だが、王の許可なき徴用は罪だ」

武陵桃源国の律令ほうりつにある。
禁軍二万五千のこと、県軍一万五千を超えぬこと。王の勅許なく徴兵を行うなかれ。故なく兵卒を徴用するは、国家大逆の罪なり。
この法令で行けば、貴陽県でもし仮に密かな徴兵を行っているならば、国忠は大逆の謀反人と言うことになる。
しかし、承服しかねる顔付きで嵐は首を傾げた。

「でも、巡見使は何も言ってこないのでしょう?」

巡見使とは王の直属の配下であり、地方行政を監視する役目にある。嵐も何度か王宮内で見掛けた事がある。もし不正があれば、彼らの報告がある筈。
だが、これには困った様に隆崇が笑った。

「どうやら、誰かが共謀者の様だ」
「巡見使が?」
「他にもいるだろう。そうでなければ、ここ百年ばかりの徴兵に誰も気付かぬ筈はない」
「百年!?」
「そうだ」

頷いた隆崇は、窗戸の外を見、嵐に目配せした。すでに外には薄闇が広がっている。夜闇に紛れてこの近くに打ち捨てられたように立っている廟堂に駆け込むのだ。そうすれば、すぐに京兆みやこに戻り、官軍を率いて戻ってくることができる。
二人は慎重に周囲を窺いながら、細く開けた扉から滑り出る。
廟堂の回廊を県令は知らない。逃げた二人を追うとすれば、隣県に向かう道か、鄭州県との境。あるいは、逃げ道を辿って川沿いか。どちらにしろ、今、彼女たちがいる所には辿り着けないだろうと言うのが隆崇の見解だったが、無論、油断するつもりはない。できるだけ目立たぬよう、日の名残りだけを頼りに廟堂に向かう。

「先日、妓楼で知り合った女が貴陽の出身でな。病の床で洗い浚い話してくれたのだ、ここ百年の貴陽県について。しかも、遡る事七百年前から租税を勝手に変えていやがったらしい」
「そんな」
「七百年前ごろと言えば、俺が即位する前後だ。たぶん、先王の死後のどさくさに紛れて、あちこちと内通して悪事に手を染め始めたのだろう。発見が遅れた言い訳ではないが、かなり厳しく民を統制しているらしい」
「…ごめん、ちょっと話変わるんだけどさ」
「うん?」

嵐は大股に進む隆崇の後を小走りに追いかける。

「王様って死なないの?」
「いや、死ぬぞ。実際に殺されかけただろうが」
「え、だって七百年前に即位って。じゃあ、仙籍?」
「いいや、普通の人間だが?」

不思議そうに隆崇が振り返る。
何を聞かれているのかさっぱりわからない、といった風情で、必死について歩いている嵐を見る。

「七百年などたいした時間とも思えんが」
「普通たいした時間でしょ?だって、人間って本来は百まで生きられないのよ」
「…は?」

完全に足を止める。

「何を言う。人間の寿命は一万が常識だろう」
「一万!?」
「そうだ。ちなみに俺は二千九百五で、苑墨は十程上。蘭陵王俊英は九百七じゃなかったかな?まだ子供だ」
「…蓬莱世界って、長寿なのね」

呆れたように肩を竦め、嵐は隆崇を追い越す。慌てて隆崇も歩き始めた。
世界がまったく違うことは知っていたが、寿命まで違うとは思っていなかった嵐にしてみれば、結構、衝撃的な事実である。もっとも、彼女は西王母によって勝手に仙籍に入れられているから、既に不老不死の身。あまり関係のない話とも言えた。

「お前の国は違ったのか?」
「そうね。長生きしても九十前が限界かしら。確か先帝の宰輔さいほ(宰相)がそんなお歳でなくなったと聞いているわ」
「短いな。何もする暇がないじゃないか。国を治めるなど、礎を築くだけでも最低二十年だ。下手をすれば五十、もっと長い例もあるだろう。一体、どうやって国を治めるんだ?」
「世襲だもの。一代で礎ができなければ、次代が引き継ぐ。さらにその次が継ぐ。王朝が倒れるまで、父の国を息子が継ぐの」
「…奇妙な世の中だな。まあ、寿命がそうも短くては、そうせざるを得まいが。しかし、父の作りたかった礎と息子のそれが噛み合わない場合もあろう?」

関心を引いたらしい。隆崇は不思議そうに訊ねる。
嵐は苦笑しながら、それでも素直に答えた。

「何でもあるわよ。初代皇帝の礎を次代が壊滅させて国が滅んだ例。初代急死で礎ができず瓦解した国の例。初代よりも次代の方が優秀で礎を作った例」
「其方の国は?」
「私の国はとりあえず五代目皇帝が立った所だったわ。父子の連携事業が上手く行った例の方ね」

隆崇は数度頷いた。

「国が変われば制度も変わると言うのは知っていたが、世界が変わるとまったく異なるようだな」
「そうねぇ…私もこちらの制度は驚いたわ。天意が王ではなく、三公を選ぶなんて」

武陵国のみならず、蓬莱界全ての国は王の統治にある。そして、三公とは王の直属の部下。武陵国でいえば、宰相、尚書、左将軍の総称にあたる。ちなみに、右将軍はあくまでも左将軍の部下で、一段低い扱いになる。彼らは天意によって選ばれる。王になろうとする人物は、まず初めに西王母の廟堂で三公に叙するべきと思う人間を推薦する。そして、それが天意に適えば、推薦人は王となる。王があって三公があるのではない、まず三公があって、それを推挙した人間が王になるのだ。
蓬莱の王は禅譲及び死亡以外で王位を去ることはない。しかし、在位には厳しい条件がつく。曰く、三公が一人でも欠けた時には禅譲しなければならない。王は三公を仕えさせることができる故に王である、と言うのが蓬莱界の理であるからだ。逆に言えば、三公を一人でも失った王には玉座に坐することは許されない。

「確か内乱状態にある海陵国って、王が息子に禅譲を宣言して三公の信を失った、って聞いたけど?」
「正確に言うと三公をそのまま息子に譲ると勅命を下した。本来、三公は王に逆らえぬ。太子の部下になるようにと言う命令であれば、太子がどれだけ阿呆で暗愚で忠誠心を刺激しない男でも、三公は勅命により太子に仕えねばならん。ところが、これが王の禅譲となれば話が変わってくる。三公に太子への忠誠心がなければ天は認めん。いくら王の勅命で太子のために三公を残しても、駄目だ」
「三公と推薦人の間の確固たる信頼関係が必要と言う訳?」
「そうとも言うな。忠誠心とは、相手をどれだけ信じられるかで決まる。海陵王…今は既になくなっているから塞王さいおうと呼ばれるが、奴と三公の間にあった信頼を、そのまま息子に引き継がせたかったのだろう。結局失敗したがな。三公は太子に忠誠がなかったとして、太子の私兵に惨殺されたと聞いた。塞王もその時一緒に殺されたのじゃないかと噂されているし、太子は天意のない三公を叙して勝手に王を名乗る。しかも、いまだに誰が天意ある三公かもわかっていないから、群雄割拠で海陵国の戦は続いている。それが引き金になったな、蓬莱界の民が王の婚姻を過度に嫌うようになった。もともと妻や子がいるならともかく、その様な騒動の元になる存在が即位後に現れるのを厭ってな」

すでに日の名残りは消え、月明かりと星の瞬きだけが二人の行く手を照らしている。
夜闇に浮かび上がる、うらぶれた廟堂を。

「もともと、世襲の習慣はないから王の結婚は必要とされないんでしょ?」
「ああ。それでも、海陵王以前であれば、婚姻にはそれ程の抵抗はなかったな。離別はやっぱりいろいろ言われるもんだったが」
「どうして?」
「そりゃ、お前。一人の妻も幸せにできぬ男が、民を幸せにできると誰が思う。離別する王は他人を傷付ける王、ひいては民を傷付ける王として厭われた。だが、婚姻まで嫌悪の対象になったのは塞王以降だ。六千年ちょっと前からだな」

隆崇が廟堂の扉に手をかけた。
嵐が深々と溜息をつく。その顔には呆れと諦めと疲労の様なものが滲んでいたが、夜闇に隠されて判然とはしなかった。

「それで、どうして私とあんたは夫婦なの?」
「…王の離別には西王母の許可がいる。お前はその西王母から押し付けられた妻だ。どうやって別れろと?しかも王の一大禁忌だ。禍根なく解消する術を教えてくれる者がいたら、俺は平伏して崇め奉ってやるぞ」





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