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豪華な寝台に寝転がろうとして、呆れ顔で扉の横に立っている人物に気付いた隆崇は、思わずうんざりした声音になった。
「…何をしている?」
「これが風呂入ってる様に見える?」
準備万端整えられた状態の嵐も、激しく不機嫌な声で応じる。
京兆から強行軍で連れてこられた上に、鬱陶しいくらい飾り立てられてから王の居室に放り込まれても心楽しい筈はない。どうも、県令には嵐と隆崇の関係性が把握できていないらしい。もし知っていたら、間違いなく県城が壊れることを恐れて、二人を引き合わせたりはしない筈だ。
「余計なことを」
「ええ、まったくね。あんたが逃亡しなきゃ、私だって今頃いい気分でお茶してたわよ」
しかも、と嵐は呟きながら臥床《に歩み寄る。
「是非、今宵は此方でお休みください、だって」
「…冗談だろ」
「冗談だったらありがたいわよ」
天敵夫婦は揃って嘆息する。非常に不愉快だ。
しかし、まさか、ここで激しく夫婦喧嘩をやらかす訳にはいかない。嵐は個人的にやっても良い、みたいな気分ではあるのだが、隆崇にそのつもりはない。嵐の調子でポンポンと悪口雑言を言われては、官吏の手前、示しがつかない。県令も目を剥くだろう。それは困る。
「まあ、そこまで言うなら仕方なおわっ」
いきなり嵐が襦裙《の下から抜いた細身の剣を一閃させる。勿論手加減したし、隆崇も難なく剣先から逃れたが、弾みで寝台から飛び降りる羽目になった。その隙に、堂々と寝台を占拠する。
「そういう事。あんたは床で寝てね」
「なんでだ!」
「だって、どう考えたって私の方が被害者じゃない」
蘭陵王からの贈り物にあった剣を鞘に収めながら、嵐は隆崇を睨めつける。
「そもそも、あんたが真面目に政務に励んでいれば、こんな不愉快な事態にはならなかった筈よ。王宮では、今のところ私たちを同じ臥室に入れる命知らずはいないんだし」
「そんな奴がいたら紫霞宮を壊滅させてやる」
「それには同意見よ」
あっさりと応じて褥布《を投げ渡す。床で寝ろ、と言う確固たる意思表示である。隆崇は反駁しようとして、結局口を閉ざした。
否、彼はようやくそれに気付き、そちらに気を取られたのだ。それまでとは別の緊張感を孕んで、表情が険しくなる。ただならぬ様子に、嵐も眉を顰めた。
「…きな臭い」
「…そう言われれば」
殆んど同時に扉に駆け寄る。だが、外側から支がしてあるのか、開かない。
二度三度と、隆崇が全身でぶつかると、回廊側で何かが引っくり返る音がした。
「火…火事!?」
外に飛び出した嵐が叫ぶ。
廊下に倒れているのが、重石に使われたであろう寝台であることを確認して、隆崇は顔を顰めた。周囲に人の気配が殆んどなくなっている。炎の向こうに息を潜めるようにして二人の様子を窺っている連中がいるのはわかったが、声を掛けてくるものはない。どうやら助けるつもりがないと見える。
当惑した様に嵐が隆崇を振り仰いだ。
「どういう事?」
「見ての通り。どうやら嵌められたな」
軽く頭を振り、隆崇は苦々しげな視線で炎を見た。
「説明は後でもできるだろう。ここから生きて出るのが先だからな、とりあえず、今夜は休戦としよう。その褥衣《の袖を切り落として口を覆っておけ。炎の中を突っ切るぞ」
「一夜限りの休戦協定?よくわかんないけど、わかった」
もともと着道楽と言う性分ではない。思う存分動き易くする為に袖を切り落とし、一部を割いて隆崇に渡す。裾も遠慮なく切り捨てた。ただし、火が直接当たらない様に気をつけながら。嵐の横で隆崇も受け取った布を二つに裂き、一つで口許を覆い、細く切った方で邪魔にならないよう髪を結った。同時に剣の柄を握る。
「とにかく外に出る。逃げる。いいな、間違っても捕まるなよ、小娘」
「了解。あんたこそ殺されないようにね、武陵王様?」
炎の向こうで男たちが動いたのと同時に、二人は床を蹴った。
振り下ろされる剣を掻い潜る。幸か不幸か、狭い通路と敵の数が少なくないことで、相手は弓矢で狙ってくる様子はない。火を放ったことで、煙が充満し、視界が悪いのも一因であろう。隆崇は立て続けに二人の兵士を切って捨てて、踵を返した。
煙と混乱に紛れて、もう一息階段を降りれば外に飛び出せると言う所まで来たものの、二人は行き詰まっていた。ここで逃げられては最後と覚悟を決めているのだろう、それまでとは真剣さが違う。剣に籠もる害意が濃厚になる。互いの背中を庇い合い、時に煙に身を隠しながらやってきたが、ここまで来ると、それも薄靄程度になってしまう。じわじわと追い詰められ、奥の一室に篭城する羽目になった。
「どうする?」
「どうしたものかな」
殺す気はない。だが、手加減する余裕もない。結局、思わぬ重傷を負わせてしまうこともあれば、最低限戦意だけを奪うこともある。調整する事は今の状態では不可能だ。それゆえに、浴びた返り血も、結構な量になる。そろそろ臭覚も馬鹿になりそうだった。
「外に出られれば逃げる算段はあったんだが」
「出られないわよねぇ、この状態じゃ」
「窗戸《から降りても…下に殺到してるだろうな」
ちらりと、奥の窗戸を見た。目線を追った嵐は駆け寄って、そっと戸を開ける。
しばしの沈黙の後、彼女が不愉快そうに振り返った。
「殺到してない」
「…何?」
「と言うか、飛び降りて降りられない事はないと思うし、下に兵士はいないからそうするべきなんだろうけど。まあ、多少のことなら生命の危機に免じて我慢するんだけど」
「だから、何なんだ」
恨めしそうに、隆崇を見る。
「下は池だから、飛び込みの要領で行けると思う。でも、その外に…獅子がいる」
「うわぁ…」
「獅子が三頭、池の周囲を徘徊してる。灯りが火事の火だけだから心許ないけど、少なくとも三頭いる。見えないだけで、もっといるかも。これ、結構絶体絶命じゃない?」
嵐と隆崇は知らなかったが、そこは県城の中庭であり、四頭の獅子が放し飼いになっていた。国忠が先王の時代に作らせた場所である。その獅子は、時に世話係のものによって賓客の前に引き出されては、見世物としてその狩りの様を披露している。よって、ある程度は人に懐いていながら、獲物を狩る本能も今もって持ち合わせている。真ん中に飛び込んでいけば、確実に生命はない。
「一頭ならともかく三頭も…か」
「どうする?今更降参しても殺されそうな気がするけど」
「確実に殺られるな」
どん、と扉が大きく揺れる。支えにしている台が微かに動いた。
「くそっ!どっちに行っても生命の危機だぞ!」
「あー!やっぱり娘子軍連れてくるべきだった!」
「どうする?お前は」
隆崇の問いに、冷ややかな視線を送る。
目の前では、二度、家具で作った防壁が大きく揺れた。
「獅子」
「…だな」
「死ぬ時は一人で死んでね?」
「その科白、そのまま返してやる!」
言うなり二人は身を翻した。窗枠《に足を掛け、一気に飛び出す。ほんの僅かの差で扉が開いた時、激しく水を叩きつける音がした。水音を聞いた兵士たちが窗戸の下を見、それから大声で他の仲間に呼ばわる。獅子たちも不穏な空気に気が立っているのか大きく唸る。足音が外に向かう。
灯りの少なさで、隆崇たちは気付いていなかった。実は、この中庭は獅子の危険性を考慮して、鉄柵によって区切られていた。池があったのは、その内、獅子がいる場所とは仕切られていた。兵士たちにしても、そんな内奥の造りまで完全には知らない。幾人かは獅子の存在に気付いて安堵の吐息を洩らした。悪鬼の如き技倆でここまで彼らを蹴り散らかしてきた二人に、些かの恐怖心があった。それでも、指揮官の言葉に従って、中庭に降りていく者もある。国忠から二人の首を持ってくるようにと言う厳命が下されていた。
兵士たちは、獅子の区域の隣にある池のほとりに駆け寄った。だが、なかなか浮いてこない。夜の水面は闇を映して深い。兵士たちは暗がりの中、顔を見合わせた。不用意に水の中に踏み込んで剣を振るわれては堪らない。若干の躊躇と警戒が彼らの探索を鈍らせていた。
やがて、いつまでも浮いてこないことに焦れで、彼らは池の中に踏み込もうとして、あることに気付いた。それは、この池の区域が獅子の区域と切り離されている原因でもあった。落ち度はあった。もはや袋の鼠と思ったのだ。
池は外部に繋がっていた。いつでも新鮮な水を取り入れ、澱んだものを排出できる様に。それゆえに獅子の区画とは切り離されていたのだ。間違って入ってくるもののないように。間違って獅子が出てしまわぬように。そして、そうであればこそ。
逃走した二人の行方は、そのまま途切れてしまった。
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