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いきなり押し掛けてきた男に仰天して、貴陽きよう県の県城(県庁)は蜂の巣を突付いたような有り様になった。
武陵桃源国では京兆みやこを中心とした鄭州ていしゅう県が最大の広さを持ち、ここは王の直轄地になる。そして、それ以外の領は八分割されて、それぞれ県城に県令(県知事)を据えて統治させる。違う制度の国もあるが、蓬莱界では概ね、この様な国家運営が多い。
貴陽県は鄭州県の西北西に位置する。県令は国忠こくちゅう。先王の時代から貴陽県県令に任じられていた。良い意味でも悪い意味でも、目立つような人物ではない。八人の県令の内で、もっとも可もなく不可もない、と見なされている男であった。
国忠は来訪者に向けて、困った様な笑みを浮かべて叩頭へいふくした。

「主上、急なお越しで…」

国忠の前で解いた髪を掻き、隆崇は快活に笑った。

「非公式の訪問だからな。苑墨には連絡するなよ?」
「御意」
「それにしても県城に来るまで、あまり人らしき人も見なかったが…はて?」

窗戸まどの方にちらりと視線を滑らせると、国忠の人当たりの良い、穏やかな表情に、若干の困惑がざわめく。
質問の意味を図りかね、それでも、律儀に返答する。

「それは…今は農閑期で、他県に出稼ぎに行っている者も多いものですから」
「ふむ。そうか。貴陽県は麦の生産しか際立った産業がなかったな」

納得したとばかりに隆崇が頷く。

「農繁期に来れば良かった。道理で途中の舎館やども人が少なく、閑散としていた訳だ」
「恐れながら、主上」
「何だ?」
「もしかして、その…街道を通って鄭州県から此方まで?」
「当然だろう。空を飛んでくる訳にもいかんからな」

不可解な事を聞くな、といった表情で首を傾げる隆崇に、国忠はさっと目を伏せた。
王の放浪癖は武陵国では有名な話だが、彼がそれを目の当たりにしたのは、これが初めてだった。それに、有名なのは永安での妓楼遊びだし、ふた月程前には貴妃を迎えたこともあって、てっきり国忠は王の放浪癖も治まったか、あるいは少なくとも頻度は減った筈だ、と勝手に思い込んでいた。

「それで、いつまで此方に滞在なされるので御座いましょう?」
「そうだなぁ。匿ってくれるなら、ひと月くらいは居たいのだが」
「御意」




…その様に貴陽県の県城で国忠が独り善がりな驚きに当惑していた頃、勝手に勘違いの要因の一つに数えられていた嵐は、ここふた月の慌しいどさくさに紛れる形で、紫霞宮おうきゅうに居場所を得てしまっていた。何しろ、朝臣全員が妙な期待を掛けてくるし、誼の深い蘭陵国からは呆然となる程豪華絢爛な結婚祝が押し付けられた。以降、他の国々から使者は来るわ、県令からの挨拶は途絶えないわで、隆崇とは顔を合わせると王宮が打撃を被るような騒動ばかりが起きるが、出奔する訳にもいかない。
その憂さを晴らす形で設立したのが、娘子軍じょうしぐんであった。
娘子軍じょうしぐんとは、文字通り、女ばかりの軍隊である。
もともとは後宮の警護を担当する武装した女性の集団であったのを、殆んど強引に自分の私軍に編成し直したのである。貴妃専用の禁軍と言える。
ただし、あくまでも元が後宮警護のためであるから、それ程の大所帯ではない。禁軍(近衛軍)、官軍(朝廷軍)、県軍(県令が県の治安維持のために組織する軍)に次ぐ、四番目の小規模な軍隊である。

「まあ、自分の身が護れる程度、それで良いのよ」

とは、娘子軍に対して彼女自身が語った言葉である。
もっとも、嵐としては周囲がほぼ全員初対面の人間である中、何とか信用の置ける仲間を持ちたい、と言う至極平凡な思惑もあったから、大きな規模を必要としなかったのは当たり前と言えば当たり前だった。
その日、と言うのは、隆崇が貴陽県の県城に現れた十日後だった。
最近ではすっかり仲良くなった玉環ぎょっかん明希めいきと言う娘子軍の将軍と三人で中庭の四阿あずまやを占領し、のんびりとお茶の時間を楽しんでいた嵐の元に、凄惨な笑顔を浮かべた美丈夫が現れた。言わずもがな、宰相の苑墨である。

「嵐妃様、少し宜しいでしょうか?」
「え…う、うん。良いけど。えーと。人払いする?」
「お願い致します」

いつもなら、玉環も明希も苑墨の美貌を陶然と見つめる所だが、さすがに長く王宮に勤めているだけあって、空気を読むのが早い。怒りのあまりの壮絶な微笑と見て取って、二人はさっさと逃亡した。残された嵐としても、非常に居た堪れない。

「嵐妃様」
「は、はい!」
「恐れながら、貴陽県の県城に赴いて戴きたく存じます」

声は淡々としているが、はっきり言って怖い。
非常に怖い。
このふた月の間で、嫌と言う程思い知らされた恐怖に、嵐は顔を引き攣らせた。

「えーと。これから?」
「はい。一刻も早く出立して戴きたいのです」
「…理由聞いても良い?」

泣き出したい気分で聞き返せば、一段と笑みが深まった。

「ご、ごめん。えーと。じゃあ、急いで準備するねっ」
「迎えは既に着いておりますので」
「わかった。わかったから…その笑顔止めて」

嵐の懇願に気が咎めたのか苑墨の表情が落ち着きを取り戻す。何しろ、半分以上が出奔した主への怒りから来る八つ当り。巻き込まれる嵐も苑墨と同じ被害者であると思い直したらしい。
それでも、まだ、口許には淡い笑みが残っているのだが。

「申し訳ありません。ですが、我々も少々気が立っておりまして」
「殺気立ってるものね。うん」
「それで、ですね」

不意に声を潜める。

「実は貴陽県令の迎えが言うには彼方の県城に主上が潜伏されている、とか」
「げ」

ここに来て、ようやくネタが読めた嵐は思わず呟く。
だが、それに気付かぬフリをして、若手敏腕宰相は彼女の前に首を垂れた。

「嵐妃様にお願い申し上げます。是非、首に縄を掛けてでも連れてお戻り下さいませ。臣下一同心より期待してお待ち申し上げております」





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