蓬莱界の中でも、特に名を轟かせる名君が存在するのは武陵桃源国と蘭陵国《である。さらにそれに続く勢力として広陵《国と楽陵《国が存在する。その他に海陵《国、博陵《国、甘陵《国、阜陵《国があるが、これらの国は現在、王の失政により騒乱の時代を迎えている。特に海陵国と甘陵国では先の王による王権継承者の指名と天詔《の喰い違いにより、かつてない程の内乱状態にある。人界の出来事であれば、必ずや他国の侵攻を招くであろう程の荒廃と言われている。だが、蓬莱界は雲海に浮かぶ浮島の如き国々から成り立つ。故に、内乱に他国が干渉することはなく、両国の騒乱は未だ誰もが打ち止めること敵わず、終わりの見えぬ泥沼に嵌りつつある…。
西王母の許で教えられた世界を反芻したのは、別に興味があるからではなかった。
痛くて重い簪にうんざりしながら嵐は王の臥室に向かう。その居たたまれない気分を紛らわせようと思ったら、頭に浮かんだのは蓬莱界の話だった。長安に生まれ育った嵐にしてみれば、異民族や周辺国からの脅威のない世界と言うのは新鮮なものだった。
とは言え、いくら歴史講義を思い出して現実逃避をしてみても、時間が止まる訳ではない。今すぐ踵を返して逃げ出したい気持ちで、自分を先導する女官の後姿を盗み見た。
今のところ、彼女はまともに武陵王の顔さえ見ていない。何しろ婚儀の時に目の前にいたのは偽者だったし、そのまま十日も行方不明になった挙句、帰ってきてから半日は政務で缶詰になっていた。顔の合わせようがない。女官たちの噂に寄れば、見目は、そう悪くはないらしい。それにしても、初の顔合わせが婚礼から長々と時間を経た後に閨室《で、とは如何なものか。
細々と嘆息した時、先頭の女官が立ち止まった。
「嵐妃様の来着に御座います」
女官が拱手すると、臥室の前に立っていた兵士が一礼して扉の把手に手を掛ける。
促されて、嵐は一歩踏み出す。
「さあ、嵐妃様」
「…わかってる」
心の中で激しく悪態を吐きながらも、緩々と室内に踏み入れる。
背後で静かに扉が閉められた。緊張して、さすがに肩が震えているのが自分でもわかった。自分で自分を抱き締める様にしながら、ゆっくりと寝台(ベッド)に近付く。天蓋から垂れる紗《で寝台の中は窺えない。
不意に、窗戸《の傍で微かな音がして、はっと振り返る。
「…何やってんのよ」
思わず口を衝いて、呆れた声が出た。
窗戸の向こう、露台の手摺《に片足掛けた人物が、肩越しに振り返っていた。偉丈夫といって差し支えない、長身の男。黒髪をひとつに束ねて肩に流している。絹ではなく麻の衣。だが、佩刀《している事からもその正体はすぐにわかった。
脱走直前で失敗した武陵王が低く呻く。
「もう少し早く逃げ出すんだった」
「そのようね…って、ちょっと待て!」
うっかり同意してから、嵐は我に返った。
「違うでしょ!逃げるな!」
「これが逃げずにいられるか」
「煩い!」
今にも露台から飛び出していきそうな−たぶん、下に馬か何かを用意していると思われる−夫婿《に遠慮なく怒鳴りつける。
嵐には嵐の事情がある。何も好んで嫁いで来た訳ではない。西王母にいきなり奴隷扱いされた上に、強引に婚姻までさせられたのだから、ここまで溜め込んだ怒りが最高潮に達している。
「自分一人で好き勝手するな!私だって不満は山の様にあるの!」
この阿呆王め、とは、ぎりぎり口にしなかったが。
つかつかと歩み寄ると、諦めたように隆崇は脚を下ろす。その代わり、やる気なさそうに手摺に腰を下ろした。
「じゃあ、帰れ」
「帰れるか!帰れないから此処にいるの。帰れるなら、真っ先に帰ってる!」
「…ちっ。あの厚化粧の女狐め」
忌々しげに舌打ちした隆崇が深々と溜息をつく。
「大体、この俺の妃にこんな」
そこまで言って、観察するように頭の天辺から足元まで嵐を見て、不愉快そうに眉を顰める。
「胸と背中の区別もつかん発育不全の小娘を寄越すとは、嫌がらせか?」
「な――っ」
「まったく気が乗らん。いいか、それ以上近付くなよ。王の勅命《だ」
不意に、嵐の視界からその姿が消えた。
一瞬呆けたが、すぐに閃いた。手摺に駆け寄って下を見ると、黒馬に跨った男がいた。どうやら背中から飛び降りて宙で一転、無事着地したらしい。軽業師並に器用だが、褒め称える気分には、無論ならない。手摺に体重を掛け、簪で重たくなった頭から落ちそうな勢いで身を乗り出す。腕輪や耳飾りが澄んだ音を立てた。
「逃げるなセクハラ男!」
「断る!俎板《娘に興味はない。とっとと帰れ」
「だから帰れないって言ってんでしょ、この阿呆!誰か来て!王が逃げるわよ!」
「阿呆だと!?誰に向かって言ってやがる!」
手綱を握った隆崇が堂々と怒鳴り返してきた。
扉の向こうで激しい足音がして、警備に当たっていた兵士が飛び込んでくる。迷わず嵐は露台の下を指差した。
「下に逃げたわ!」
兵士たちが露台に駆け寄るのと、隆崇が馬首を巡らせるが同時だった。
駿馬の脚が力強く地面を蹴る。
ばたばたと周囲が慌しくなり兵士たちと女官たちの足音が入り乱れる。騎影は既に夜の静寂の中に溶け込んでいこうとしていた。
嵐妃様、と声を掛けられて振り返ると、酷く不安そうな女官たちの視線に行き合った。
「…ふざけんじゃないわよ」
自分でも驚く程、不穏当な声が零れ落ちた。
「上等だわ!この喧嘩買ってやる!覚えてらっしゃい!ただじゃ済まさないんだから!人を馬鹿にしたツケは払ってもらうわよ!」
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