麻の袍衣から絹の裙衣《に着替えて臥室《を出た隆崇は、目の前で伏礼している人物の漂わせる冷気に、思わず視線を彷徨わせた。
「礼煩わしければ則ち乱る、と言うが?」
玉座から今にも浮き上がりそうな腰を何とか押し留めつつ、あらぬ方向を向いて無駄な抵抗を試みる。
案の定、苑墨は頭を上げることなく、その姿のまま、ひんやりとした声で応じた。
「礼とは敬意を示すもの。主上におかれましては御自ら京兆《の視察を行われたとの事。臣は主上の政に傾ける情熱に感服いたしました」
「…う、うむ」
「何でも京兆の妓楼にて哀れにも病を患っている遊君《を大変哀れんでおられたとか。この苑墨、そこまで一人一人の民に心を砕かれる主上の情に言葉も御座いません」
隆崇の目の前で平伏したまま、苑墨はぴくりとも動かない。それだけに、隆崇にも逃げ出す隙がまったくない。背中を滝の様に嫌な汗が流れるのを感じながら、武陵王は必死に平静を装って、言い訳の言葉を飲み込む。
どうやら、この十日間の出奔生活については、しっかりと美貌の宰相の耳に入ってしまっているらしい。そのくせ迎えを寄越さなかったな、と思ったが、恐ろしくて口にはできなかった。
「いや、まあ。あれだ」
「何で御座いましょう?」
「…そう言えば、朝議の方はどうなっているのかな」
玉座の上で、そわそわと落ち着かなげな様子を晒しながら隆崇は何とか話を逸らそうと試みる。だが、ものの見事に迎撃された。
「玉璽《が無くては進む決裁も進みません」
にべもなく、苑墨が言ってのける。まだ、頭は上がらない。
頬を引き攣らせて黙り込んだ隆崇は、諦めて白旗を振ることにした。敏腕の若手宰相である苑墨の真の恐ろしさは、登極《前からの長い付き合いの間柄、よくわかっている。ここで折れなければ、空恐ろしい事態が起きる。それだけは間違いない。
「俺が悪かった。ああ、俺が悪かった。判ったから早く立て!」
後半は殆んど悲鳴に近くなった。
衣擦れの音がして、ゆっくりと立ち上がった苑墨の表情は、怜悧な微笑に彩られている。
「…怖いぞ」
「おやおや、私は笑っておりますが?」
「お前は笑っている時の方が怖い。子供の頃からそれだけは変わらん」
憮然として頬杖をつく隆崇に、苑墨は、内心軽い溜息をついた。
彼だって、好き好んでこんな表情をしている訳ではない。原因は婚礼を前にして行方も告げずに出奔した隆崇にある。それも、相手は只の人ではない。崑崙の西王母が特に目を掛けて華国より蓬莱界に呼び寄せ、わざわざ仙籍に入れて寄越した少女である。西王母は、蓬莱と天界とを繋ぐ掛け橋、天帝の意を伝える絶対の女仙。そこから押し付けられた嫁から逃亡するのは、甚だしく不敬にあたる。
「怖いと思われるのは偏に主上の御心が疚しさを感じていらっしゃるからで御座いましょう。私の責任では御座いません」
「…我が国の官は口が減らぬ。俺を王と認めておらぬ様だ」
「では、やはり伏礼を以って内奏させて戴きたく」
「ええい!止めんか!」
肺活量一杯に隆崇が叫ぶ。
「お前、俺をからかって遊んでいるだろう」
「御冗談を。主上で遊ぶ程、暇では御座いません」
美貌の宰相は、今度こそ堂々と深い溜息を吐いた。
苑墨の眉間に深い皺が寄っていて、隆崇はそっと胸を撫で下ろす。どうやら破滅の危機は乗り越えられたらしい。微笑が消えたと言うことは、怒りは一応治まったと言うことになる。
「溜め込んだ書類は山の如く御座いますれば、根性を据えて政務に励んで下さい」
「わかった。次の脱走に備えて精々頑張るとするか」
「主上」
「さあ、政務だ政務だ。昼餉《の暇もなさそうだな」
「主上!」
いそいそと玉座を立ち上がって逃げ出そうとした大男に、尖がった苑墨の声が飛ぶ。
恐る恐る振り返る武陵王に、辣腕の宰相は幾許かの憐れみと苛立ちを込めた微笑を投げ付けた。
「その前に是非昼餉を召し上がって戴きたく存じます。十日振りに腕を揮えると厨宰《たちが喜んでおりますので」
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