嵐妃ランぴ様ーっ!」

遠くで聞こえる女官の叫び声に、中庭の木陰に隠れていた嵐は跳ね起きた。勿論、女官の声に返事をする為ではなく、脱兎の如く逃げ出すためである。
紫霞宮しかきゅうに輿入れして、もとい、させられてから早十日。絹のうわぎで飾り立てられ、烏羽色の髪を結い上げられて簪をこれでもかと差し込まれるのは、何とか慣れた。強制なので、慣れるしかない。目の前のこの上なく贅沢な料理がごまんと並べられるのも、とりあえず馴染んできた。
それでも、長安の一庶民であった彼女にしてみれば、日がな一日、夢の世界に入る直前まで女官がへばり付いている生活は、結構堪え難いものがある。見付かっては堪らんと、彼女は匍匐前進で中庭を移動する。手入れが良いのか悪いのか、様々な植物が旺盛に繁っているので、隠れ場所には困らない。

「主上のお帰りで御座いますー!」
「嵐妃様ー!」

徐々に捜索人数が増えている気がして、嵐は軽い眩暈を覚えた。
これは、間違いない。天官てんかん(国政を司る官吏)を統括している宰相が手を回しているに違いない。婚礼の儀の時に一度見たきりの、秀麗な顔を思い出して、嵐は小さく唸る。美丈夫宰相苑墨の裏には憎き西王母がいるのだ。

「冗談じゃない。絶対に思い通りになんかなってやるもんか」

呻いた瞬間、不快な記憶が蘇る。
婚礼の儀の途中で発覚した事態を、誰が予測しえたであろう。武陵王隆崇りゅうしゅう、敵前逃亡。
重臣たちが石化していた。女官たちも凍り付いていた。宰相の顔には悪鬼も裸足で逃げ出す冷徹な微笑が浮かんでいた。左右将軍は顔を見合わせ、尚書しょうしょも怒りに打ち震えていた。
だが、一番腹を立てている−そして、その権利がある−のは、間違いなく嵐である。

「大体ありえる?よりにもよって自分の結婚式をすっぽかすなんて、親の顔が見てみたいわよ!」

無駄に広い中庭のあちこちで相変わらず女官たちの声が木霊する。
彼女たちが血相変えて捜し回ると言うことは、武陵王が本当に帰還したのであろう。婚儀の日から既に十日。嵐としては馬鹿にされた気分である。とてもではないが、今更のこのこ武陵王の前に出て行くのは腹が立つし矜持が許さない。
いっそ逃げ出すか?
不穏当な思いが脳裏を掠めたが、それより先に女官の気配が彼女の潜んでいた傍にやってきた。しまった、と思ってももう遅い。逃げ出すより早く、優秀な女官たちが一斉に裳裾すそに取り縋って彼女を押さえ付ける。

「嵐様!」
「この様な所で腹這いにおなりになるなんて!」
「衣が土で汚れております!」
「土だらけ!」
「誰か、早うにお着替えのご用意を」
「お湯を用意しやれや」

嵐は思い切り突っ伏した。どうやら、逃げようにも逃げられないらしいことは、彼女にも充分に理解できた。





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